進撃の社畜

ブラック企業を全て駆逐してやる

労働の本質

労働の本質は何なのだろうか。
新入社員で入社前に外部コンサルタントにより研修を受けた。この研修は、新入社員の全身を社畜に改造するためのカリキュラムが満載であった。
この研修を受けた後は、労働は、やりがいのためにするものだと思っていた。ここでいうやりがいは、仕事を頑張ってお客さんの笑顔を見るためのであって、見返りなど求めるべきでないというもの。
入社して仕事をするうえで、自分の給与の額を知ったり、転職してきた先輩に他社と比べ入社した会社の従業員に対する待遇の悪さについて教えてもらった。
仕事をしていくことで、研修で教えられた労働は間違えであると知った。

決して、やりがいやお客さんの笑顔なんていうものは、労働の本質になりえない。
僕は労働の本質は、シンプルだ。労働とは「労働した分のお金をもらうことだ」と思っている。「労働を提供してそれに見合う報酬をもらう」ということが労働の本質で、絶対にかけてはいけないものである。
給与は、労働×時間で決めるべきだと思っている。他は、おまけのようなものであって、無くてもいい。

労働は、お金以外のためにあるという人が反論するかもしれないが、それは給与を会社に返すか、寄付してから言って欲しい。
確かにお金以外のものを得ることができるかも知らない。それは、労働に見合った報酬を得て生活が維持できた上での、おまけのようなものだ。
仕事を通じて、やりがいを得たり成長ができたとしても、労働に見合ったお金がもらえないとしたら、それは企業による、労働の窃盗でしかない。
会社では、やりがいがあるから給与は少なくてもいいよねという価値観が従業員に植え付けられている気がする。

サービス残業は、労働の窃盗でしかない。サービス残業は、労働したのにその対価を一切受け取ることができない。これは労働とは言えない。サービス残業は、違法であるという認識もないことがある。
サービス残業中は労働ではないので、すきなことをしても問題は無いと思っている。


会社では、「労働をした分のお金をもらう」といった当然のことができていないことがある。
労働の本質は「労働をした分のお金をもらう」であるのに、本来あってはいけないことだが、やりがいやお客さんの笑顔でといった、実利のない副産物で支払われることがある。
あたかも、この副産物と労働が対等に取引ができると思い込まされる。
労働の目的として、やりがいや成長を挙げる経営者や研修の講師は、信用するべきでない。
このような人を信用すると、労働を安い金額でやらされる。それだけでなく、労働時間を極限まで延ばされて仕事しかできない人生を歩まされることになる。